「めんどくさい」という気持ちはとても厄介だ。体力がなくなった近年は、そう思うと何もできなくなる。
そこを一押し、ほんの少しだけ踏み出して、わずかでもやってみる。
少しやっては休み、少しやっては休む。その都度水分の補給。これを忘れて、先日は不覚の熱中症になってしまった。・・反省!!
歳をとると童心に戻ると言われるが、自分でもそれは本当だと思える。
人は成長する過程で、模倣し、吸収し、反抗して自己形成をし、社会生活の中で自己実現を続けていくが、歳をとり、社会生活から退いて、周りの人たちを天国に見送る経験をし、自分の衰えを感じるようになってみると、本当の自分の良さ、足りない面を見つめるようになる。
周りの人の素晴らしさもよく見えてくる。
生まれたときに自然が与えてくれた自分。死のときに持っていく自分。
幼子の心でもう一度見まわしてみると見える世界の陰影が一段と深くなる。
自然の中に占める人間の素晴らしさ、おぞましさ。
計り知れない自然の力。
今私は大切な時を一期一会の気持ちで味わっている。
あたたかな冬の日差し。一杯のお茶。布団のぬくもり。風のそよぎ。花の色、空の色。音楽の不思議。
月の変化。雨の雫。そして人の暖かさ。
半面、今世界で苦しんでいる方々のことを思う。
ただ祈るばかり。
与えられている現状に
感謝するばかり。
人は群れることから離れると、「ヒト」として豊かなものを紡ぎ出していくもののようだ。
人里離れて暮らす人に共通なものは、余計なことを考えず、ただその日その日を懸命に生きて歳を重ねる姿、もしくは自然の中で、自然を敬い尊重して共存する姿。
見ていて感動させられるとともに、現代社会に暮らす不自然さを反省させられる。
見習おう!!
人生の苦しみは身・口・意の病と過ちから生ずる。
過ちはどう悔いても戻らないが、前向きに悔いて心から謝り、自分を改めれば次の過ちは回避できる。
パウロは許され、ユダは許されなかった・・その違いはパウロは悔いて主に許しを求め前向きに自分を変えようと努力し、ユダは人のせいにして許しを求めなかった。
時の流れはひと時も休むことなく前に向かって時を刻む。
人も日々過ちを改め、新たに前に向かって生きることが摂理にかなった生き方なのではないかと思う。
「私は決してあなたを一人ぼっちにさせはしない。いつもあなたと共にいる」主がそういわれるように一番大切な家族(夫・妻・子供)にいつもそう言ってあげよう。
いき詰った時・・自分をダメだと思わないこと。
自分がダメなのではなく、やり方や考え方の行き詰まりなのだから、やり方や考え方を変えてみれば道は自ずと開けてくる。
≪軌道修正すればいいだけ≫のことなのだから。
自分を信じること!
自分を大切にすること!
自分を愛すること!
自分と和解すること!
失敗を恐れないこと!
常にチャレンジすること!
人は成長の過程で親や尊敬する人の意見を基準に自分の価値観を育てていく。しかし成長するにつけて、そうした借り物の価値観だけでは対処しきれない事態に遭遇して、自分なりに考え、失敗や成功体験を積み重ね、軌道修正しながら、自己形成をして行く。
しかしその過程で、外界の現実を受けとめきれずに、葛藤を生む体験を排除したり、他者の所為にして現実から逃げる対処法を身に着けてしまうと、現実を受け入れる力がどんどん弱くなり、問題解決の間違いに気づくことが出来にくくなる。
子どもに苦労させたくない親心、子どもとの葛藤を避けようとする親の姿勢の先にある大きな落とし穴である。
人生には悲しいこと、苦しいこと、淋しいこと、不安なこと、様々な困難があるものだ。保護された親の翼の下では、困難は親が対処すべきものとしてとらえられる。翼の下から外に出て困難にぶつかれば、慌てて翼の下に逃げ帰る。しかし少しずつ自分で対処する力を身に着けることがある。親鳥はこうした経験を成長に応じて積み重ねさせる。
雛はこうして自立の力を付けていく。ここが出来ていない巣立ちは死を意味する。
現代の子育てで、最も欠如しているところはこの経験の積み重ねだ。
親の側に「子供には苦労をさせたくない」という思いばかりが強いと、子どもはすべてを他者の所為にして困難を避けようとする。
幼児期、小さな困難に対処する力を身に着けた子供は、他者への思いやりも同時に学ぶことが出来る。
学び損ねた子供は、自分中心のアダルト・チルドレンに育つ危険性がある。
人の心は「掴みがたい!」
人の心は「限りなく優しい!」
人の心は「危うい!」
人の心は「限りなく尊い!」
【子育ては最も大切な使命】